”ふたり”が”二人”になる物語 ~TVアニメ「ワールドダイスター」に寄せて~

みなさん、こんばんわらじ~!

 

……。

このクソダサい挨拶は現在毎週木曜21時から超A&Gで放送されている「ワールドダイスターRADIO☆わらじ」で一部のリスナーが使っているもので、あまりのダサさにパーソナリティの長谷川さんが木野目監督に促されても絶対に言わないという逸話を持ちます。

突然そんな話をしてどうしたと思うかもしれませんが、筆者の人間性というか「ああこいつはアニメだけじゃなく声優も追っているタイプのオタクなんだ」というのがなんとなく伝わればいいかなと思いまして……。

なぜそんな半端な自己紹介をかましたのかというと、今回は前述したラジオの大元となっているTVアニメ「ワールドダイスター」の話をしたいからで、この作品はメディアミックス作品のひとつでTVアニメは2023年4月から放送されていました。

(説明不要かと思いますが、木野目監督とはこのアニメの監督を指します)

 

放送時の評価はお世辞にもいいものとは言えず、「セリフに頼りすぎ」「画をぬるぬるさせすぎ」等の声が散見されていたように思います。

制作陣も「画や演技だけでは視聴者に伝わらないと思い多めに説明を入れたが、作画班が作り上げた映像や声優の演技だけで十分説得力を持たせられていて不要だった」とどの方面にも微妙に失礼な反省をしており、減点法で見たら30点くらいしか残らないよなとも思います。

ただこういうのってそもそもそういう部分が鼻につくほど”引いて”見てしまっていることが問題だったりするんですよね。

 

そこで今回はワールドダイスターというアニメを前のめりに見て加点法で7億点を目指すぞ!という趣旨で記事を書いていきます。

お察しとは思いますがこれは「一度アニメは見たけどそんなに刺さらなかったな~」という人向けの記事であり、未視聴の場合は今すぐブラウザバックして本作を視聴してみてください。

 

……

…………

「おい、未視聴者はもう行ったってよ!」(修学旅行の夜)

さて、それでは本題に入っていきます。

本作はメディアミックスであり、いわゆる”外側”の活動も増えるんじゃないかとアニメくんと女性声優オタクの半妖(どっちも妖怪だろ)としてはウキウキしながら視聴していました。

キャラクターと女性声優の間に存在しない第三人格を生み出して双方の文脈を投影してなんとなく情緒を間借りするチャンスなので。

 

更に普段は”キャラクター”と”演者”の二層しかレイヤーが存在しないところ、演劇が題材ということで”劇中劇内のキャラクター”、”アニメ内のキャラクター”、”演者”という三層で楽しめる可能性があってお得!くらいに思っていたんですよね。

「”アラジン”を演じる”鳳ここな”を演じる”石見舞菜香さん”」を見たくないですか?

 

ところが前述のラジオでの話を聞くと、演じる際に「そうは言っても初演だし……」「そうはいっても16歳の少女だし……」という手心を加えると「本気で男性役に寄せてほしい」「キャラクターは一度忘れてほしい」という指示が飛ぶらしいということが分かります。

木野目監督のインタビューでも「オーディションから一貫して”キャラクターというものをいかに意識せずに演じられるか”を重視していた」とあり、明確な分離が図られていたようです。

 

つまり「”アラジン”を演じる”鳳ここな”を演じる”石見舞菜香さん”」ではなく「”アラジン”を演じる”石見舞菜香さん”」をお出しされていることになります。

もちろんこのままではワールドダイスターというアニメのレイヤーを噛ませている理由が一切なくなってしまいます。アラビアンナイトの朗読劇でもやっておけという話になるので……。

 

であればどうでしょう、世界の外側に存在する声優という補助線を一度消してみましょう。(最初からそうするべきですよ)

そうすると「アラジン」だけが浮き上がってきます。

ワールドダイスターというアニメが顕現させたいのは「”アラジン”を演じる”鳳ここな”」ではなく「”アラジン”その人」ということになりませんか。

「劇団シリウスの上演するアラビアンナイト」ではなく「アラビアンナイトという世界そのもの」を顕現させたいのではないでしょうか。

 

本編第九場「ワールドダイスター」にてカトリナ・グリーベルの母親であるテレーゼ・グリーベルが登場しましたが、現ワールドダイスターの彼女の演技は「セットも衣装もないのにそれが見えてしまう」という状況を引き起こしました。

第十二場「きっとふたりで」にてここながセンスを進化させたときも、演出家の工藤花が用意していない舞台セットが登場しています。

 

つまりワールドダイスターとは「観客に作品世界をリアルなものとして見せる」「視聴者もキャラクターの作り出した世界に飲み込まれる」(木野目監督言)存在なんですね。

サブタイトルにメインタイトルを冠したわりに微妙な回だと思っててすまん、めちゃ大事な回だった……。

 

であればアフレコの際の指示も頷けるし、作劇上も「”アラジン”を演じる”鳳ここな”」ではなく「アラジン=鳳ここな」として読むことができます。

例として「アラビアンナイト」を挙げましたが、本作ではほかにも「人魚姫」や「竹取物語」、「ロミオとジュリエット」や「オペラ座の怪人」といった演目が登場します。

 

今回はこれらの演目とここなたちが演じた役を読み解きながら、ワールドダイスターというアニメの魅力を知っていただけたら幸甚です。

ちなみに筆者は鳳ここなさんと静香さんの話しかできないのでその二人の話ばかりしますがよろしくお願いします。

 

本日の公演内容

 

開演のアナウンス

物語を追っていく上で重要なのは現在地を知ることです。

まずは第一場「夢見る少女」で提示された情報を整理をしておきましょう。

 

・鳳ここなの夢

「いつかなれるかなあ。”私”も、ワールドダイスターに」

・ワールドダイスターになれる人

「明日の自分を信じられる人よ」

・センスとは

”その瞳を輝かすセンスはきっと自分の胸の可能性”

この作品におけるセンスとは、漠然とした才能ではなく目に見える特殊能力を指します。
自分の可能性を信じることで発現し、その瞳に宿る光で表現されるものだと考えておけば大丈夫です。

第一場では静香の演技を見たここなの瞳が夜明けの太陽を反射する形で輝きますが、これは自らの輝きではないため本当は正しくないんですよね。

月は自ら輝くことができず太陽の光を反射しているだけというのは全オタクが知っていることですが、この時点でのここなと静香の関係もそういったものだと推測できます。

(実際はお互いがお互いのことを太陽だと思っている気がしますが……)

この辺はトゥ・オブ・アスに全部書いてあるので読んでください。

「誰にだってなれるんじゃない、あなたの輝き見つけて欲しい」ということなので……。

ともかく、静香も生まれてしまった以上は別の人格であり、それを信じることは明日の自分を信じることにはならないよねというのが今後も描かれていくことになります。

ここな自体のセンスは右目に宿っていますが、オーディションの際に光っていたのは左目のため、ここでもまだ静香の真似事をしているだけだと分かります。

本来はセンスなしとして不合格のところ、柊さんが強引にねじ込む形で合格となりました。

古代エジプトでは左目は月の象徴とされたそうですが果たして……
竹取物語のオーディションでも八恵の輝きを反射したことで負けてしまいました

以上のことを踏まえて、各演目について見ていきましょう。

 

人魚姫

配役 人魚姫:新妻八恵 王子:鳳ここな 深海の魔女:柊望有

この演目は本編でも一部のみの登場だったので軽く。

人魚姫と八恵の共通点はその声にあります。

八恵のセンスは白亜の魂といい、歌に感情を乗せ観客に響かせることができます。

元々は聖歌隊としてその歌声を存分に発揮していた八恵ですが、魔女である柊に演劇に誘われ始めた結果、強すぎる自らのセンスが原因で舞台を壊してしまう状態にありました。

ただでさえかわいい八恵さんのもっとかわいい時代

王子であるここなが助けなければいつかは声を失うことになっていたでしょう。

そうすれば王子を刺し殺すことでしか生き残る道はなかったのかもしれません。

もしくは自ら舞台の上から消えることを選ぶか……。

原典ではその二択しかありませんでしたが、そもそも王子が人魚姫を選んでさえいればハッピーエンドだよねというのをアラビアンナイトで示すことになりました。

第七場で提示された八恵と柊の最初で最後の共演作としての人魚姫でも、王子は人魚姫を選べなかったのかもしれません。

柊が板の上に残っていればあるいはここなのように別に公演で……とも思いますが……。

この公演を最後に柊さんは裏方に。

当たり前のように他演目の話を絡めてしまいましたが、鳳ここな=王子であり鳳ここな=アラジンであるなら鳳ここな=王子=アラジンが成り立つのは自明なので今後もこういった論理の飛躍が登場します。

ちなみにこのオーディションで合格したカトリナですが、「舞台装置も美術もないから唯一あるスポットライトを活かそう」という考え方は正しいのですが、ワールドダイスターを目指すのであれば平然と存在しない舞台セットを召喚するべきなのでこの時点ではまだまだ力不足といったところです。

 

竹取物語

配役 かぐや姫:カトリナ・グリーベル 操:鳳ここな 月の従者:静香

いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。 野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。とかいうの、どこの小学校も暗誦させられたんでしょうか。

あまりに有名な一節で、本作第四場のサブタイトルや挿入歌「夢見月夜」の歌い出しにも採用されています。

とはいえ、我々が知っている竹取物語から大胆にアレンジされていますね。

一番目につくのは操の存在でしょうか。

アニオリで新キャラを出すと叩かれがちですが、今回のコンセプトからすると操の存在なくしてキャラに見立てることはできませんから大事な役どころです。

逆に石作皇子を筆頭にかぐやに求婚する貴公子たちは出てきません。

カトリナをかぐやとするならば、文句を言われる演出チームがそうなのかもしれません。

また帝は出てきますがエンディングから見て不死の霊薬を燃やしたりといった行動は取っていないと思われます。

また、第二場「誰かのまねごと」、第三場「初めての舞台」だけでなく、少し時間の経過した第九場で月の使者ことテレーゼが迎えに来るのも特徴です。

 

さて、公演の内容に入る前に今回示された情報を整理します。

オーディションでカトリナに敗れたここなは、柊に呼び出され自分を知るように言われます。

「自分を知らない役者が、他の誰かになれると思う?」

これはここなに向けた言葉であり、この段階では柊には静香は見えていませんが、隣で聞いていた静香の表情は隠されています。

静香自身も自分が何者なのか分かっておらず、だからこそ他の誰にもなれずにここなとは未分の存在として収まっているわけです。

静香が個として確立するためには自分自身を知る必要があります。

「自分、自分ってなんだろうね」
「簡単には見つからないから、人は自分探しの旅に出るんでしょうね」

これが結果的に第十一場へのロングパスになっています。

 

それでは公演内容に触れていきます。

かぐやは元々月の住人であり、罪人として地球に流されてきました。

カトリナにとって月(故郷)はドイツでしょう。

演劇一家に生まれ本人も才に恵まれ有名な劇団に所属していた。

ところが公演中に集中力を切らし公演を台無しにする罪を犯し地球(シリウス)に流されることとなった。

その後操(ここな)という同年代の友人と気の置けない仲になるところまでは同じですが、カトリナは故郷に帰ることをよしとせずそのまま残ることになります。

この時迎えにきたテレーゼは原典のごとく圧倒的な武力を有していましたが、操役のここなは一切怯むことなく迎えることができました。

この操という少女は原典には登場しないわけですが、その存在はかぐや姫だけでなく、それを演じるカトリナをも救うことになりました。

「もう一人じゃないから」

「ワールドダイスターには一人ではなれないもの」(後述)ですから、カトリナは「シリウスにいる理由」を獲得することになります。

シリウスにいる理由」とは本作のメインヒロインである静香の攻略に必要なキーアイテムで、これを集めないと先に進むことができません。(後述)

ただしこれだけでは片手落ちで、本人の気持ちのほかにもう一つ必要なものがありました。

役への感情です。

シリウスのお客様は、役者同士の感情がぶつかりあう本物の演技を求めています」

しかしカトリナの”完璧”な演技にはそれが足りませんでした。

静香曰く、「役作りは自分を知り、役を知り、共通点と相違点を見つけて、一歩ずつ役に近づいていくこと」だそうです。

この公演の中でカトリナは、同時に「シリウスの演技」も獲得することができました。

役との共通点、操への感謝を見つけました

でもまだ感情を隠している子がいるんじゃないでしょうか。

これは一つ後の話で取り上げられます。

「理想の自分をつくってお手本にするセンスってこと?それなら舞台に出てくる必要なんてないはずだけど」

 

次は操……と行きたいですが、実はかぐやにはもう一つ役割があります。

というのも、オーディションに向けてここなもかぐや姫を演じているんですよね。

とするとここなにもかぐやの文脈が投影されることになります。

ここなにとって月は舞台です。

センスがないと言われ見上げることしかできなかった場所。

この作品において役者は星、センスは光と称されることが多々あります。

役者たちはひと際輝く一等星になるためにしのぎを削っていて、観客は星から降り注ぐ光を一方的に観測する存在、板の上と下で断絶した世界として描かれています。

ここなは青森に引っ越すことで舞台から追放されてしまいました。(文化資本格差が憎い)

そこでは一緒に演じてくれる「共演者」も、自分の演技を見てくれる「観客」もいません。

だからその二つの役割を持つセンスを発現させました。

そうして生み出した静香(月の従者)の導きでようやく舞台に戻ることができたのです。

陸奥横浜にある二人だけの舞台も、墨田川沿いにある二人だけの舞台も、オーディションに落ちた帰り道の電車の座席上でさえいつだって静香に板の上から手を差し伸べられてきたわけです。

いつだって舞台の上から静香が手を引いてくれます


さて、勘のいい読者はお気づきでしょうが、一人で二役を演じるのはここなだけではありません。

同様に、ここなと二人一役(と本人は言っていますが……)で操を作り上げた静香にも操の文脈が乗ります。

月の従者としてここなを月に帰した静香ですが、もう一方で操として地球(舞台の外)に取り残されてしまいました。

そして月に帰ったかぐや姫は地球での出来事を忘れてしまいます。

ここなのために生み出されたセンスは与えられた役割を終えたら消えてしまいます。

今回の公演を通して、完璧なだけの演技しかできないカトリナはここなと一緒に感情と感情がぶつかる本物の演技(シリウスの舞台)をすることで居場所を得ました。

一方でここなは渇望していた内のひとつ、共演者を得ました。

このことで静香はここなの「共演者」としての役割を失ってしまいます。

代わりに二人一役の「役作り」という新たな役割も得たのですが、結果として生まれた理由の半分を失った形になります。

”人間”の感情のぶつかり合いが静香の存在意義を消していく、ここなのセンスの名前が「一人二役(ダブルロール)」というのはずいぶんと気の利いた皮肉です。

静香はまだ”一人”と呼べる存在ではないということなので。

 

さて、本公演で語られるかぐやの”夢”は「120年に一度しか咲かない竹の花を操と一緒に見たい」というものでしたが、それはあくまで手段であって、実際の目的としては「それくらい長く一緒にいられるといいね」ということでした。

結局二人は離ればなれになり、操の側から「竹の花は翌月咲いた上に月と地球の間には雲が覆って見えないけれど、それでも二人はそばにいるはずだよね」というのを描くに留まりましたが、かぐやもきっとそう思っていたんじゃないかということに異論を唱える者はいないでしょう。

かぐやと操は、カトリナとここなはたとえ離れたとしてもそばにいると信じられましたが、ここなと静香はどうなんでしょうか。

一抹の別れを予感させながら竹取物語は幕引きとなりました。

これは余談ですが、シリウスの公演はすべて離別に終わった作品の先を描く形で終わっていて、これは「世界そのものの顕現」による物語の再解釈・再構築の結果なのかなと思っています。

 

静香がかぐや性を有しているのはもう誰が見てもそうだから、いいよな?

制作陣も静香の別れをイメージさせたかったみたいなこと言ってるし……。

筆者が書かなくても勿忘唄に全部書いてあります。

書いてありますが、「恋模様に似た小さな想い」って、なに?

すいませんいつか必ず逃げずに正面からぶつかります……。

 

幕間①

新人公演を終え、ここらで一息とばかりに始まる萌え萌え第四場ですが、実は意外と大事な話をしています。

次の演目の話に移る前に一度整理しておきましょう。

 

・静香って何者?

本人曰く、「私はここなのワールドダイスターになりたいって気持ちに応えて出てきたんだと思う」とのこと。

これはすべてが嘘ではないにしても核心ではありません。

詳細は後述しますが、ここなの夢と因果関係が前後してしまうからです。

ワールドダイスターになりたいから静香が生まれたわけではなく、静香がいるからワールドダイスターになりたいんですよね。

だから「私はあくまで、あの子が舞台に立つために必要な存在だから」というのも正しくないんですが、今は目を逸らしています。

「自分を知ること」が大切なのに自分を知ろうとしていない状態にあるわけです。

「ここなの夢を応援したい、それだけなの」
センスの光は輝きません

終始和やかに、ギャグっぽく進んでいく第四場ではありますが、自分の存在をすべてここなによって規定しようとする静香にとって大事な一歩目だったように思います。

「ここなを取られたみたいでおもしろくない!」

赤ちゃんか?

それではまた次の演目を見ていきましょう。

 

アラビアンナイト

配役 アラジン:鳳ここな ランプの魔人:新妻八恵

 

もっといるだろ?はい……。

そこは今後の課題とするか君たちの目で確かめてみろ!とします。

絞らないと一生終わらないから……。

 

さて、気を取り直していきましょう。

この演目は「主人公のアラジンよりランプの魔人のほうが全然知名度高いよね」という理由で選ばれたらしいです。確かに。

調べたところ、題材となった「アラジンと魔法のランプ」という話は実は「アラビアンナイト」とは何の関係もないらしいです。

そして我々がイメージとして持っている「魔人が叶えてくれる願いは三つ」「最後にアラジンが魔人の願いを叶える」という要素はディズニー版のオリジナルのようで、原典では魔人は無制限に魔法を行使できるし最後にケアが入ったりもしないようでした。

ただ、本作の劇中劇でもアラジンが魔人の願いを叶える約束をしていることが示唆されています。

「オイラの願い事は”ご主人様”に幸せになってもらうことなんだ」
「今度は”君”が、オイラの願いをかなえてくれるんでしょ?期待、してるからね」

本演目についてはオタクがこねくり回す必要もなく、八恵自身がランプの魔人になりきりここなを「ご主人様」と呼びながら生活しているため分かりやすいです。

八恵がランプの魔人として振る舞うならば、ここなの願いを叶える代わりに自身の願いも一つ叶えてもらおうとしていることになります。

 

ではまず、八恵の願いごととは何でしょうか。

第五場「願いごと」にて八恵は役作りに悩むここなに自分の描くアラジン像を伝えます。

「ここなさんは、私を信じることはできますか?」
「なら簡単です!その気持ちのまま、アラジンに臨んでください」

そのとおりに演じればきっと舞台はうまくいく、と続けました。

「舞台を成功させること」自体は後述するここなの願いになるので、「私の言うとおりにすればあなたの願いは叶います」ということになります。

 

では「自分の思ったとおりに演じてもらうこと」が八恵の願いなのでしょうか。

これはあくまで手段にすぎず、もっと別の目的があることが窺えます。

その片鱗は第五場中に現れました。

「まずはシリウスでダイスター、そしてワールドダイスターに……。そしたらきっと……」

ただこれはカトリナに言わせれば「役者なら誰でもそうでしょ」ということで、願いそのものよりもそう考えるに至った理由のほうが大事なわけです。

 

それは第七場「自分を信じて」で明かされた八恵と柊の過去にありました。

柊に誘われ柊の演技に魅了される形で演劇の世界に飛び込んだ八恵は、人魚姫で共演できると知り、喜び勇んで報告しに行きます。

そこで柊がその公演を最後に舞台を下りるという話を聞いてしまいました。

シリウスからワールドダイスターを輩出する。それまでは、舞台に立つ気はありません」

八恵は台本を強く握りしめます。

柊最後の公演となった人魚姫、八恵はその舞台のポスターを見ながら当時の出来事を思い出し、願いごとを口にするのでした。

「はやく、ワールドダイスターになりたい……」

 

これは柊の願いを叶えてあげたいという気持ちもありますが、それ以上に自分の願いを叶えてほしいということでもあります。

シリウスの魔人は相手の願いを叶えるだけの存在ではありませんから。

柊は「シリウスからワールドダイスターを輩出するまでは舞台には戻らない」と言いました。

であれば、誰かが、自分がワールドダイスターになればまた柊は舞台に戻ってくるのではないか。

そして、戻ってきたなら……。

 

ファントム役のオーディションに参加する際、八恵は柊にこう言いました。

「柊さんの演じるファントムなら、クリスティーヌをやってみたかったです」

これがどういうことなのかというと、八恵にとってはファントムを演じる、つまり自分のイメージを脱却してダイスターを目指すよりも大事なことがあって。

柊と共演できるのならダイスターになることは二の次なんです。

つまり八恵の本当の願いごとは「もう一度柊と一緒に舞台に上がること」ということです。

 

柊の言葉は単なる決意の表明であり、実際にワールドダイスターが生まれたとして柊が舞台に戻る保障はありません。

しかし八恵にとっては唯一の希望になりました。

ではワールドダイスターになるためにはどうすればいいか、八恵は考えました。

「私がダイスターになるには、新しい”新妻八恵”を見せなくてはいけないんです」
「求められたまま演じる限り、ダイスターには近づけないと気づきました」

みなさんは当然疑問に思いますよね。
八恵がここなに願ったことは、ここなをダイスターから遠ざける行為ではないかと。
八恵自身もこのことに気づいています。

「存在感を示すことができない役者は消えていく」
「八恵なら、こうなることは薄々分かっていたでしょう」

それでも八恵は願ってしまいました。

自分がワールドダイスターになるために、柊と舞台に上がるために引き立て役になってくれと。

そんな八恵に、ランプの魔人に、”ここな”はこう願いました。

「八恵ちゃんがダイスターになれますように」「それは……いい願いごとだね」

八恵はいったいどんな顔をしていたんでしょうか。

魔人を演じているはずが、声だけはふだんの八恵のものに戻ってしまいました。

 

こうして願い願われる関係になったアラジンとランプの魔人ですが、実は大きな問題が一つあります。

なんでも願いを叶えられるといいつつも、叶えられないものが二つあります。

「誰かを生き返らせたり、心を操ったりはできないからね!」

本来は「誰かを殺すこと」もできないのですが、シリウスの魔人にはその縛りがありません。

八恵は役者としてのここなを殺す選択をしてしまいます。
それでも、役者としての柊を生き返らせることは魔人にはできないのです。

八恵が魔人であるうちは柊が舞台に戻ってくることはありません。

だから、八恵を解放してあげられるアラジンが登場する必要がありました。

アラジンは「核がない」キャラクターです。

つまり「役者の核・個性」がそのままアラジンになるということです。

 

ではここなのアラジンはどうでしょうか。

ここなは以前、カトリナに「役者未満」と評されたことがあります。

役者未満のあなたがダイスターどころかワールドダイスターなんて、口にするのも烏滸がましいことだと思わない?」

これは役を奪い合う間柄にもかかわらず仲良くしようと声をかけてくるここなに対しての発言です。

この姿勢自体は正されることになるのですが、「いい役がほしい、もっと見られたい」という役者が持っていて当たり前の感情を持っていないここなは役者ですらない、という部分には一定の理がありました。

そういった感情は静香に預けてしまったため仕方ないと言えば仕方ないのですが、ともかく闘争心を持たないここなは役者ではなく、”役者”の個性の表出であるアラジンにはなれません。

だからここなには八恵を助けることができない……はずでした。

 

変化が生まれたのは第六場「誰も私を見ていない」で、ここなは観客の目が自分に向いていないことに気が付きます。

 

「誰も……私を見てない……」

ここなはずっと「八恵と舞台に立てて楽しい」「舞台を成功させたい」という気持ちでアラビアンナイトを演じてきて、実際それは成功しているはずでした。

であれば、観客が自分を見ていなかったとして気にする必要はありません。

「もっと自分を見てほしい」という気持ちは静香に預けたはずです。

それでも、自分が見向きもされていない現状を認識してショックを受けてしまった。

これがどういうことかというと、役者に必要な負けん気のようなものが芽生えてきたということです。

そうして”役者”として踏み出したここなは、自分の核をもって”アラジン”となり八恵を救う力を得ました。

 

魔人はアラジンの願いごとを叶える形でランプから解放されました。

であれば、八恵も”アラジン”の願いを叶えることで解放されることになります。

”アラジン”は無理を承知で劇団員に頼み込みます。

「お願いします!」
「主演が毎公演演技を変える?そんなの聞いたことないわ」

「今諦めたら、もう舞台に立てなくなる」気がする、魔人に殺人の禁忌を犯させてしまうことになります。

「私はかまいませんよ」「私がなんとかしますから」

魔人は願いを聞き入れました。

相手の気持ちを、役者のエゴを変えることは魔人にもできません。

 

アラジンと魔人の選択により、舞台の結末が変わります。

それまでの公演は魔人がアラジンに願いを託すところで幕が下りていて、実際に願いが叶えられたかは分かりませんでした。

魔人の願いが叶えられたかどうかは観客の手に委ねられた

ここなが演技を変えてからの公演はこの先に新たなシーンが追加されます。

「君が願ったように、俺もレイラも幸せに暮らしている。君のおかげだ」

魔人曰く「ご主人様がランプの主と認められている間は何回でも願いごとを叶えてあげるよ」とのことですが、「今度は”君”が、オイラの願いをかなえてくれるんでしょ?」というように、主でなくなったアラジンの願いを叶える力はなく、アラジン自身の手で叶えたことが分かります。

 

ではここなは、八恵の「ワールドダイスターになりたい」という願いを叶えられるのでしょうか。

千穐楽のころには、観客はきっと新妻八恵のことしか記憶に残らないでしょう」
「舞台を壊した役者に、世界はダイスターの称号を与えはしない」

八恵を縛り付けていたのはその強すぎるセンスでした。
役者のほうが記憶に残ってしまう舞台は舞台として失敗だからです。

でも今回は違いました。

観客は八恵ではなく、”アラビアンナイト”に酔いしれることができています。

「この歓声が聞こえるか?みんな”アラビアンナイト”に酔いしれてる」
「誰も私を見ていない」のは八恵にとっては大きな一歩

ここなはこうして八恵を解放することができたのでした。

 

成長したここなが「願いごとはもうよそう」で〆るのが決意の表明としてあまりに美しいんですよね。

これからは魔人に頼らず自分の力で望みを叶えていくということなので……。

「もしも、また君と会うことができたら……」という言葉がどうなったかを、我々は「New Nostalgic Friend」で知っているはずです。

魔人が消えてから千年以上先の未来で、元アラジンは解放された元魔人と再び出会うことができたんですよね。

 

舞台の幕が下りた後、”再び出会った”ここなと八恵。

八恵は助けてくれたここなにお礼を言います。

「”ここなさん”、助けてくれてありがとうございました」
「明日の公演もよろしくお願いします、”ここなさん”!」

ランプの主はもういません。

そこにいたのは同じ夢を追いかける対等な二人の少女だけでした。

 

とまあめちゃめちゃ美しい構成なんですよ。

アラビアンナイトだけ急に分かりすぎて逆に竹取物語とかオペラ座の怪人のこと何も分かってない気がしてきました。

 

さて、実はこの物語は高速RTAが可能でした。

八恵の最初の問いを思い出してみましょう。

「ここなさんは、私を信じることはできますか?」

八恵を信じるとはどういうことでしょうか。

第三場にてここなに「どうすればカトリナと本物の演技ができるのか」と尋ねられた八恵は、「相手を信じて、逃げずに真正面からぶつかることです」と答えました。

「無理してカトリナさんの演技に合わせる必要はありません。ここなさんは、ここなさんの自分の演技をすればいいのです」
「役者を救えるのは、同じ舞台に立つ役者だけですから」

つまり最初から答えは出ていたわけです。

 

ただどうして話がこじれてしまったのかというと、八恵は自分の弱点が分かっていないからです。

自分のことをよく知らない状態なわけです。

だからもう既に出ているはずの答えが自分にも当てはまるとは気づけないんですよね。

「自分を知る」ということの大切さは重ねて説明してきた通りですが、それができなかった結果、八恵の願いは「ここなが八恵の演技を信じて引き立て役に回る」という八恵の意図通りの間違った方法で叶えられてしまいました。

でも相手を信じるってそういうことじゃないよね、というボタンの掛け違いが発生します。

 

八恵は自分の間違いに気づけませんが、ここなはどうでしょう。

ここなとしても舞台に立って誰かと共演できる喜びが先に立ち、現状をよしとしてしまっています。

「今度こそ、本当の俺を君に知ってほしい」という言葉が虚しく響く

第一場で静香はワールドダイスターのことを「明日の自分を信じられる人」と定義しましたが、他人を信じている間はここなからはその資格が失われてしまいます。

この負け筋は以前もご紹介した通り

第六場にて静香の説得を振り切り自らの意志で”二人だけの舞台”から降りてしまったここなに、愛想を尽かせた静香(センス≒可能性)も姿を消してしまいました。

「ごめん、明日も公演あるから。今日はもう休むね」
静香は無言で劇場を去ります。

そんな中で、役者としての感情を芽生えさせたここなはようやく自分の可能性が消失していることに気が付いたわけですが、それでも真っ先に探すべき舞台を無意識に避けてしまいます。

 

しかしカトリナとの会話を通し静香との約束を思い出し、夢と向き合うことでようやく可能性の光が再び宿ります。

「約束したんだ、静香ちゃんと……」

ここでも静香は板の上からここなに手を伸ばします。月の使者性ですね。

「「誰にも負けない、私たちだけのアラジンを、演じるために!」」

そしてワールドダイスターになる役者が持つべきわがままさをもって、ここなは舞台の演技・演出を大きく変えようとします。

「いい役がほしい」という気持ちを否定しない台本に書かれた「主役は私!!」の文字。

キャストの言を借りるとここなは「信じられるものがなかったから八恵を信じた」ということですが、これはここなと静香の役作りの結果生まれた「人間味溢れるアラジン」に活かされていきます。

アラジンは物語が進み魔人やレイラたちと出会う中で信じられるものが増えていき、それによって最後は魔人に頼らず自分の足で立つ男になる(これもキャスト談)わけですが、ここなも同様にカトリナやシャモと会話する中で八恵に頼らず立てるようになっていきました。

そうしてここなが自分の役者の核として「自分に合わせて舞台を変えてほしい」と八恵に願うことで二人の関係はアラジンと魔人として、本物の演技をするシリウスの団員として正しい形に戻っていきます。

 

その一方で、ここなと静香の関係にも変化が現れました。

前述のとおり、なんでここなに核がなかったのかというとそういう役者に必要な感情をエゴとして全部手放してしまったからです。

でもここにきて新たにそういったものが芽生え始めているんですよね。

これがどういうことかというと、ここなと静香は別々の存在になりはじめている。

静香から負の感情が失われているわけではないので、返してもらったとかではなく本当に新しい部分なわけです。

ということは静香にも同じような変化が生まれているのでは?というのは容易に想像できますね。

ここなの中に生まれた感情は役者にとって必要なものなので受け入れることができました。

では静香の中に生まれた感情はどうなんでしょうか……という話がオペラ座の怪人で描かれていくことになります。

 

さて、今回静香は家出していて役はないように見えますが、ここなと役作りをしたということは当然アラジン性を有しています。

柊さんの指導方針からすると、「人間味溢れるアラジン」の基本造形は静香が持っていたものでしょう。

信じられるものがここなしかいなかった、それでもシリウスの面々と出会う中で信じられるものが増えていったという部分も重なります。

 

しかし静香にはもっとぴったりの役がありますよね?

そう、ランプの魔人です。

「でも静香はランプの魔人を演じていないじゃん」と思うかもしれませんが、このタイミングで柊さんのセリフが重大な示唆をくれます。

「ワールドダイスターには、きっと一人じゃなれないものなのよ」

(「私は気づくのが遅かった」ということは柊もかつては八恵のように一人で舞台を破壊していたのかもしれません)

本編ではおそらく八恵が同じ結論に達していたはずですが、それを「だからここなに踏み台になってもらう」という方向に発露させてしまいました。

これが誤っていることは既に説明したとおりです。

八恵は結論の解釈が誤っていたため、その過程にある「相手を信じる」の解釈も本来自分が持っていたものから歪んでしまったのだと思われます。

では柊はどういう意図で言ったのかというと、「演劇は相手がいてこそ成り立つ」という尊重の意味合いでしょう。

これは静香が生まれた理由から考えても、本作を貫く主張の一つであると言えます。

「共演者」を失ったここながどうなったのか、ということですから。

 

であれば、アラジンを演じるここなの”相手”に対してもランプの魔人性を読み取ることができます。

ここなが願いをかけたのは誰でしょう。

静香も間接的にランプの魔人を演じていることになります。

ここなが静香に与えた役割は三つ、かけた願いは三つ。

そのうち一つは既に達成しています。

そして観客の存在を意識するようになったということは、二つめの役割も満了したということです。

残された願いは「役作り」だけとなってしまいました。

 

本来は三つ目の願いで静香を解放するはずですが、もう既に願いはかけられた後だというのが本演目の幕引き。

もう既に生まれた時点での理由は失われ、新たに生まれた「役作り」の役割だけが残っている状態はある意味一つの人格として認められるんじゃないかという気もするが、そんな簡単な話ではないよねということで次の話に投げられます。

 

本演目では八恵の「シリウスにいる理由」が開示されましたが、今回は言及しないロミオとジュリエットによってぱんだと知冴の「シリウスにいる理由」も開示されます。

キーアイテムを雑に回収したことにするのをやめな。

ここなはカトリナに「どうしてシリウスに入ろうと思ったのか」と聞かれても答えることはできませんでした。

 

幕間②

第九場ではカトリナの母、現ワールドダイスターのテレーゼが来日します。

サブタイトルでメインタイトルを回収しておきながら箸休め的な要素も持つ不思議な回ですが、いくつか情報が提示されているため整理しておきましょう。

 

・静香の変化

まずはこちらをごらんください。

かわいい服着てるね。自分で生み出したの?

なにかお気づきになりませんか?

静香はその生い立ちから私服にしても稽古着にしてもずっとここなと対になるようなものを着ていたんですよね。

私服と稽古着には統一感がある

それが初めてまったく違う服装をしているんですよね。

アラビアンナイトで少し触れた、ここなと静香の分離が始まっているわけです。

 

ただ、この変化はここなにとってはいいものでも静香にとってはどうでしょう。

ぱんだたちとのやり取りからすると今は夏休みで学校もなければ劇団も休み、羽を伸ばすためにかわいい服を着ているとも取れます。

ところがここなの話を聞くと、ここ数日はカトリナと飛び入り参加できるインプロ劇団に通っているとのこと。

演劇漬けなのであれば普段どおりの動きやすい私服か稽古着のほうが都合がいいはずです。

 

ところがこのインプロというのは台本のない即興演劇のことで、言ってしまえば「役作り」という静香の現状唯一の役割が必要ないものなんですね。

だからこんな動きづらそうな服を着ていても平気なわけです。

もしかしたら静香はシリウス寮でお留守番しているのかもしれません。

”カトリナちゃんと一緒に”としかここなは言っていないので。

 

また、第八場「ロミオとジュリエット」と第九場では八恵が小学生であること、夏休みの宿題があることを理由に舞台に立てていません。

その結果、常に舞台の外にいる静香と一緒にいることが多いです。

「やっぱり、舞台に立ちたくなってきました!」
演じるのってすごく楽しいです!」というここなの言葉を聞く二人

そうした中で、八恵は静香から伝わるとある感情に気づいていきます。
それが第十場「それぞれの幻影」にて表出してしまいました。

「ファントムを演じてみたいんじゃないですか?」
「さっきの演技を見ていて、舞台への渇望を感じました」

幕間①で触れた第四場での「本当は出るべきじゃなかった」というのは「静香がここなが役者として舞台に立つために必要な存在だから」ではなく、「舞台への渇望を抑えられなくなるから」だったわけです。

静香に預けたはずの舞台への渇望が再び生まれたここなと、預けられた渇望が隠しきれなくなってきた静香。

ふたりの関係は少しずつ変わっていきます。

 

・テレーゼ(月の使者)の来訪

先に触れたとおり、第九場は竹取物語の延長でもあります。

第八場までは竹取物語でいうとかぐやと操が二人で過ごす時間を描く段階でしかなかったわけです。

シャモ曰く「少し伸び悩んで」おり、テレーゼ曰く「いくつかの劇団からオファーが来ている」カトリナは、月に帰り環境を変えるのも一つの手でした。

しかしカトリナはここなに力強く宣言しました。

「私はワールドダイスターになるためにシリウスに入った」
「あんたにも新妻にも負けるつもりはないわ」

最初は役者未満だと思っていた相手に実績として劣ってしまっています。

そんな状態で帰れるわけがないんですよね。

よくここなに赤面させられているので勘違いしてしまうかもしれませんが、これは完全に役者としての自我です。

”いくつかの劇団”というのが石作皇子等だとするとそれを振ってここなを選んだということで、「恋心に似た小さな想い」の説明がついてしまいますが気のせいです。

カトリナさん、本当にがんばってほしい。

 

・ワールドダイスターの演技、柊の真意

テレーゼの演技で抑えておくべき点はいくつかあって、まずワールドダイスターは当然のように舞台セットを召喚します。

「さあ、地獄に堕ちよう!」

この原理については既に説明したとおりですが、改めてこういうことができる人たちということを認識しておきましょう。

 

更に言えば、テレーゼは自分のセンスを使っていません。

というのも、センスは自分の色に瞳が輝くんですよね。

テレーゼはカトリナと同じ瞳の色をしているので同じように輝くはずです。

しかし実際は紫、つまり柊のセンスに乗っかってるだけなんですよ。

「本番に近い演技ができた」ということはまだ先があります

にもかかわらず、柊は一方的に汗をかいているわけです。

そしてそれだけのパワーがありながら観客は柊のことも見えている(舞台を壊していない)んですよね。

「柊さんもすごいね……テレーゼさんに視線が集中するように演技していた気がするの」

これがワールドダイスターの実力ということです。

柊はワールドダイスターを前に改めて自分との距離を認識します。

「遠い、ですね……」

柊は「私も”改めて”、ワールドダイスターのセンスを肌で感じられました」と言っていますが、直前の挨拶で名乗っていたことから直接の面識はないと思われます。

ということはどこかで一方的に演技を見たことになります。

そのタイミングで現状の自分に対する限界を感じたのではないでしょうか。

テレーゼ曰く柊のセンスは「共演者を立たせる類のもの」らしいです。

 

しかし第五場では「昔はだいたい柊さんが主役」と言われているように、当時のシリウスは立たせるべき共演者が不在の状況だったと推測されます。

だからこそ一度舞台を下り、自分が立たせるべき存在「シリウスのワールドダイスター」の出現を待っているんじゃないかと。

「ワールドダイスターには一人じゃなれないもの」とはおそらくそういうことなんですよね。

テレーゼはそれを知ってか知らずか、こう言い残します。

「もっと自分を知れば、センスはさらに進化する。そのときを待っているわ」

これは想像なんですが、今回の来訪は「シリウスが娘のカトリナを預けるに足る劇団か」をテストするためのものだったんじゃないでしょうか。

本質は月の使者ですから、強引に連れ帰ることも考えていたはずです。

それでカトリナの住む町の環境、共演者、指導者を見て回った。

そしてテレーゼはここならカトリナを預けられると判断し、あとはカトリナの選択に委ねることにしました。

 

とはいえ飛行機の中でメッセージを受け取っているくらいですから、答えは分かっていたものだと思いますが。

テレーゼはカトリナ、ここな、静香を「未来のダイスター」と呼びました。

その上で柊にセンスを進化させろということは、「教え子をダイスターにして自分も舞台に戻ってセンスを進化させて自分のところまで登ってこい」ということで。

ワールドダイスターはいったいどこまで見えているんだよっていう凄味があるんですよね。

 

というわけで、第九場は舞台の外側にいる静香と柊にスポットライトの当たる回でした。

八恵がワールドダイスターになれば本当に柊は舞台に戻るであろうというのが分かったのも地味に大きいですね。

未来のダイスターたち

 

オペラ座の怪人

配役 ファントム:静香

基本的にはこれだけでいいです。

これはあくまで論旨上の都合であって、実際は全員配役どおりの読みが出来ますしプラスで全員ファントム性も併せ持っています。

オーディションに向けて役作りを行ったのもそうですが、ファントムの持つ舞台への渇望は役者であれば誰でも持っているものなので。

あとは直接演じていないものとして、ここなは静香にとっても八恵にとってもクリスティーヌになり得ます。

 

さて、このオペラ座の怪人という演目は「名前くらいは聞いたことがあるけど……」みたいな人が多いんじゃないかと思います。

実際筆者も白井夢結さんが好きということくらいしか知らなかったので、その状態でも拾える情報から読んでいきたいと思います。

原典は……いつかちゃんと読みます……。

 

この話はまず秋公演である「オペラ座の怪人」の主役・ファントムを演じる役者を決めるオーディションを行うところから始まります。

このオーディションで見たいのは「センスの可能性」です。

おそらく第九場でテレーゼに言われたことが影響していると思われます。

 

オーディションへの参加は誰でも可ということで、主役争いの場に身を投じるかどうかという各々の選択が描かれました。

アラビアンナイトの際に前借りしてしまったのですが、この章で提示される「役者の当たり前の感情」からすれば全員即断でもおかしくありません。

八恵も即断。求められたまま演じる限りダイスターには近づけないのは変わりません

しかしここなは少し躊躇います。

自分に自信がない部分は突然変わるものでもありませんから。

それでもようやく芽生えた役者としての自我、そして第六場の「主役をやればワールドダイスター(≒静香との約束)に近づく」というカトリナの言を胸にここなはファントム役に立候補します。

”誰でも”ということは本当は静香にも権利はあったはずですが、静香はそれを行使しませんでした。

 

台本を受け取ったここなにカトリナが声を掛けます。

カトリナはそこでここなへの感情を吐露し、以前自分が否定した「役を奪い合うライバルだろうと手を取り合うことはできる」ということを示しました。

 

一方で静香は一人稽古場で役作りに励みます。

ここなに渡された「オペラ座の怪人」の台本を手に取る静香

そこで八恵に「本当は舞台に立ちたいのではないか」と問われた際に、演技中ではないのにファントムと思考が重なっています。

「私は影、醜い怪物なのだから」
「だって私は、ここなのセンスなんだから」

柊曰く「自分から遠い役を演じてみたいと思うのは役者の性」とのことですが、自分と重なる役についてはあまり演じたくないとも取れます。

役作りは役を知り自分を知ることですから、自分と向き合うことを恐れているうちはうまくいきません。

 

実際、静香がここなとのすり合わせのタイミングで披露した「社会から拒絶された怒りと孤独を爆発させるファントム像」は、「THE オペラ座の怪人って感じ」でありシリウスの台本に深く潜った結果辿りついたファントムではありませんでした。

「ファントムを演じるためにはもっと深く潜らないと」

それに対してここなは「夢見がちな一人の男としてのファントム」を演じてみせます。

自分が台本を読んで感じた、「誰かに愛されたかったファントム」を表現します。

「私が台本を読んで感じたファントムは、暗闇の中でひとり膝を抱えてた」

ここなは台本をもらった直後にカトリナに呼び出されているため、実際には「静香が先に読んで、演じた台本」を見てそう感じたわけです。

自分とは違うアプローチで役作りをするここなを見て、静香は己の役割を見直します。

 

「役作り、一人でできるようになったんだ」
いつか帰るはずの月を見上げます

この手段としてライバルたちの演技を分析するのですが、これは正しくありません。

ファントムを演じるために必要なのは他人の研究ではなく役にもっと深く潜ることだと自分で言っていたはずです。

答えは分かっているのにアプローチを間違えてしまう、というのはアラビアンナイトでも描かれていましたが、このときの静香は自分のセンスとは逆の右目が他人の光によって輝いてしまっています。

 

そんな中、カトリナの鬼気迫る演技を目の当たりにし、今のままでは勝てないことを認識します。

カトリナの演技を見てここなは弱気になります。

「あんな演技、どうすればできるんだろう」

ここなが”本物の演技”をできない理由は既に挙げた通りです。

「ここなに欠けているもの、教えてあげる」

そして今回、静香の残された役割である「役作り」についても失敗し、自分の胸を締め付ける舞台への渇望も抱えきれないほど膨れ上がってしまいました。

 

であれば、もうやるべきことは決まっています。

かぐや姫は月に帰るときがきてしまいました。

最後の願いを叶えた魔人は千年の眠りに就かなくてはいけません。

確かに役者に必要な感情を押し付けたままの状態は正しくありません。

これもキャスト談ですが、ここなが手放してしまった感情を「静香が大事に持っていてくれた」という表現が真に迫っていて、必要なときがきたら返してあげなきゃいけないんですよね。

 

ただ、感情を返すことと静香がここなの中に還ることは必ずしも同義なのでしょうか。

静香という存在は、ここなが自身を失って抱えきれなかった感情の拠り所でしかないのでしょうか。

静香は言いました。

「私はここなのセンス。ここなが作り上げた、ここなの舞台に必要だった相手役」

でも舞台の相手役に求められているのはすべてを委ねることではない、というのはアラビアンナイトで描かれていますよね。

 

ここで足を止めて考えてみましょう。

そもそも静香はどうして自ら消えることを選択したのでしょうか。

柊さんが言うには、静香は「演じる役に溶け込むのが異様に上手い」「役の感情を正確に引き出せる」「憑依型と言われるタイプに近い」そうです。

そんな静香がどうしてここなの考えた「夢見がちな一人の男」というファントム像にたどりつけなかったのでしょうか。

 

ここなが自分の可能性を見失ってしまったとき、答えは舞台の上にしかないにもかかわらず目を逸らして浅草の街中を探してしまいます。

静香はここなの弱さから生まれていますから、答えは台本に深く潜ることでしか見つからないはずなのに同じように目を逸らして他の役者を研究してしまうわけです。

であれば、ここなはカトリナの助言によって現状を認識することができたように、静香にも誰かが外側から現状を認識させてあげる必要があります。

「あんたは主役なのよ。主役が迷ってたら、脇役の私たちがどんなに頑張ってもフォローできないでしょ」

このセリフはカトリナの実体験を踏まえていて、操役のここなの頑張りはもちろんですが、カトリナ自身が前を向いたことでようやく進むことができたんですよね。

ここでも答えは最初から示されていました。

 

しかし静香は「主役じゃない私の出番はここで終わり」と言っていて、周りがどれだけ頑張ってもフォローできない状態にあります。

「主役は私!!」という気持ちを認めて前を向かないかぎり静香が救われることはありません。

本当は幼き日の静香がここなにかけた言葉がそのまま答えなのですが、自分自身に向き合わない限りは自分の声は自分には届きません。

「そしたらその子が怒ったんだ。”自分の気持ちに嘘ついてたらいい演技なんてできないよ”って」

ではなぜ静香は自分自身に向き合えなかったのかというと、ここなが自分自身と向き合っていないからです。

 

「舞台に立ちたい、良い役が欲しい、誰よりも輝きたい。他の役者を蹴落としてでも」

そういった感情が自分にあり、それを静香に押し付けていたことを知ったときここなは己の中にあったはずのそれを否定してしまいます。

「私そんなこと――――」「思ってた!」

でも静香が言うようにそれは舞台に立つ役者として持っているべき感情なんですよ。

「でも思っていいんだよ。役者なんだもん」

静香はもう一人の自分ですから、その根源にある自分の醜い感情とも向き合わなければいけなかったんです。

「だけど、怖いよ」
「教えてくれたら、ちゃんと演じるから!」

それができないから、静香は消えるしかなかったわけです。

 

そうして静香はここなの中に戻っていき、オーディション本番を迎えました。

ここなの披露したファントムは、決して演技ではありません。

ここなの中に戻った静香の感情そのものです。

「本物の舞台の上は眩しかった。ここなの成長は眩しかった」

「私も立ちたい、できるならあの光あふれる本物の舞台の上に」

「光を求めてしまうんだ」

そういった「心の弱さ、純粋さ、表舞台への渇望、求めても手に入らない苛立ち、嫉妬、悲しみ」を持った複雑なファントム像は、ここなに主役の座を勝ち取らせます。

 

しかしここなの顔に笑顔はありませんでした。

「オーディションを勝ち取った役者の顔じゃないわね。ファントムが抜けきってないみたい」
「あれはファントムじゃなくて、私の中に消えていった静香ちゃんだから」

柊はここながこの先センスを失う可能性を理解しつつ、「ここなが演じたファントムが舞台に立つ姿を見たい」という理由で主役に抜擢します。

ここなの披露したファントムは”演技”ではなく”静香の感情”でしかなく、これをそのまま舞台に持ち込んでしまえばそれは役者ではないわけです。

ただ、このオーディションの判断基準は「センスの可能性」です。

柊はここなの中に新しい可能性を感じました。

 

ではここながセンスを取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。

元ワールドダイスターであるシャモはここなに言います。

「舞台に立つということは芝居を通して自分を知ることよ」
「自分の内側にある輝きと向き合うことでセンスは生まれる」

舞台の上で改めてここなは自分自身と向き合います。

「目の前にいるのはもう一人の自分、あなたの話すべき相手」
「聞いてごらんなさい、あなたが今どうしたいのか」

そして思い出しました、ふたりの”約束”を。

「一人だけじゃ挫けちゃうから、私には必要だったの」「約束。思い出して」

 

この作品は「少女たちが夢を叶えるための物語」ですが、実は”夢”というのを全く信用していないアニメでもあって。

第一場「夢見る少女」で示された夢は実は二つあります。

ここなの夢が「ワールドダイスターになること」であることは先に触れましたが、実はこのタイミングで静香の夢も提示されており、それは「ここなをワールドダイスターにすること」でした。

サブタイトルが”少女”という単数形なのは、まだここなと静香が同一人物だったからです。

 

同一人物というのはまったく同じ人が二人いることを指しません。

一人の存在が二分割されたとして、合わせて一人なのであればそれは同じ人間と同義です。

竹取物語でも少し触れましたが、「一人二役」というのはふたりがまだ”二人”になり切れていないということです。

実際この時期は「静香のつく悪態が実はここなの本心」というのを狙って演出しているようです。

「なんなのあの子。かわいい顔してクソ生意気じゃない」
ふーん、ここなってカトリナのことかわいい顔だと思ってるんだ……

しかしアラビアンナイトを演じる中で二人の関係に変化が訪れます。

一度は見失ってしまった静香をまた見つけた時の言葉。

「”静香ちゃんと一緒に”、ワールドダイスターになりたい」

ここなの夢は少しだけ形を変えました。

 

そして第十一場「私たちの約束」で”約束”の真実が明かされます。

第一場で示された約束は、欺瞞とまでは言いませんが真実とは離れていました。

ここなは自分の夢を信じ切れていませんでした。

「ほんとはね、心のどこかで無理だろうなって思ってた」「自分のこと信じてなかった」
鏡に映る自分自身と向き合って直視した真実

代わりに「夢見る少女」を演じることで自分を信じさせていました。

これは同時に、ここなと同一人物である静香も夢を信じ切れていなかったことを意味します。

ここなは「自分を信じてないから忘れてしまったのかな」と言っていましたが、静香も自分を信じていなかったので約束を忘れてしまっていたんですね。

大切だったはずの約束

ここなの負の感情から生まれたのが静香であるなら、ここなと同様叶うか分からない夢を見続けることは静香だって怖いんですよ。

 

八恵に舞台に立たないのかと聞かれたとき、静香はこう返しました。

「だって私は、ここなのセンスなんだから」

「舞台に立つということは芝居を通して自分を知ること」であるならば、自分を知らない限り舞台には立てません。

静香は自分が何者か分からないうちは舞台に立てないんですよ。

そんな状態でワールドダイスターになりたいなんて言えるでしょうか。

舞台に立てない役者未満の自分が、そんなことを口にするだけでも烏滸がましいのではないか。

 

叶うか分からない夢なんか最初から見ないほうがずっと楽です。

その代わりに新しい夢と、それを信じる自分を演じました。

「ここなもなれるよ、私がしてみせる」

「夢見る少女」が反転する瞬間、急速に地に足がついていきます。

OPテーマの「ワナビスタ!」には「”憧れ”はきっと最初に演じた役」という歌詞がありますが、ここなは「ワールドダイスターに憧れる自分」を、静香は「ここなが憧れる自分」を演じることから物語は始まったわけです。

「憧れちゃったんだもん。しょうがないよ」

「演じた役を読み解く」というコンセプトはどこに行ったんだよと思っていたかもしれませんが、無事本題に戻ってこられましたね。

 

ただ、この作品において夢見る少女を”演じる”ことは必ずしも正しくありません。

「明日の自分を信じること」とはかけ離れているからです。

 

だから彼女たちはもう一度約束を結びなおす必要がありました。

「ワールドダイスターになりたい」は願いの本質ではありません。

カトリナが演じたかぐやのように、八恵が演じた魔人のように、本当の意味が他にあるわけです。

 

ワールドダイスターになるのはあくまで手段でしかなく、自分がワールドダイスターになったら静香もなれるはず、つまりここなの夢は「静香をワールドダイスターにすること」なんですよね。

「私がなれたら、静香ちゃんも絶対なれるよ!」

そしてそれすらも手段でしかなく、本当の目的はその先にある「いつか一緒の舞台に立つこと」です。

「そしたらいつか……いつか、一緒の舞台に立とうね!」

アラジンがランプの魔人に願ったのは、たった一つのことでした。

 

であれば、まだ間に合います。

ランプの魔人にはまだ叶えられる願いが残っています。

そのためには「目指せ!ワールドダイスター!!」ではダメなんです。

それでは「夢見る少女」で止まってしまう。

 

ここなは決心します。

「私、みんなと稽古します。静香ちゃんにもう一度会うために」

舞台に立ち芝居を通して自分を知り、自分の中にある輝きと向き合うために。

そして仲間たちに一緒に稽古をしてくれるようお願いします。

演劇は相手がいないと成立しません。

自分の中にある輝きと向き合うということは、静香と向き合うことでもあります。

そして迎えた本番で、ここなは静香のいない舞台に立ちます。

「私が舞台に立てたのは、静香ちゃんがここから私を送り出してくれたから」
「だけど、静香ちゃんがどんな気持ちだったか知らなかった。だから、もう一度!」

鏡映しの静香の瞳にセンスが宿ります。

静香が消えなくてはならなかったのはここなが自分と向き合っていなかったからで、静香が舞台への渇望を抱えきれなかったのは舞台に立てないからです。

「だから、返すねこの気持ち。舞台に立てない私が持ってるべきじゃないもの」

であれば、ここなが自分と向き合い、静香と向き合い、静香も芝居を通して自分と向き合ったのであれば何の問題もないわけです。

役作りとは役を知り自分を知りその共通点と相違点を探しながら一歩ずつ近づく行為であり、演技とは相手を信じて正面からぶつかる行為です。

ここなが静香を別の存在と認め、相違点を理解しようとすることで、「静香の感情」でしかなかったファントムは改めてここなの”本物の演技”になります。

一度は驚いた自分の本性から、ここなはもう逃げません。

「さっきは驚いたりしてごめんなさい。もう逃げたりしないわ」
「だからもう一度、私にあなたの顔を見せて」

 

本当はこれも答えはもう出ていたんですよね。

二人一役といいながら実際は一人二役の役作りを行っていたここなと静香ですが、ファントム役を作り上げる途中でこんな一幕がありました。

「そっか、ここのファントムって昔の話をしたくなくてそっけないのかと思ってたけど……」
「それだけじゃないと思うの。クリスティーヌと過ごす時間がいとおしくて、大切にしようとしていたんじゃないかって。ここなのファントムに対する解釈を聞いて思ったの」

”ここ”というのは静香が演じた怒りのエチュードの部分を指しますが、台本上ではこのシーンの導線として「クリスティーヌに素顔を見られ自嘲するファントム」というシーンが入っています。

静香と重なるこのシーンは、それまでの静香であったら直視できなかったかもしれません。

それでもここなから見た静香のファントム像を伝え、それを聞いて静香は自分自身を理解する。

そうやって自分の輪郭を明確にすることで静香はここなから分離していく。

静香が自分を知ることで役作りは更に進んでいく。

二人一役の役作りへの第一歩めが確かにそこにあったんですよね。

 

ここなの精神世界で静香に「やっぱり、ここなはワールドダイスターになれるよ」と言われたとき、ここなは第一場とは違い言い切りました。

「なるよ。きっといつか」

これは自分を信じることと同時に、「自分がなれたら静香もなれる」という子どものころの無邪気な約束を静香にも”信じさせてあげる”ことです。

できないからと諦めていた舞台に立つことを、できるのであればどうしたいのかと問いかけます。

「静香ちゃんはどうしたい?」

ランプに閉じ込められていた魔人に願いを問うように。

この問いはシャモが言っていたように、「もう一人の自分」に対する問いかけです。

幼き日のここなへの問答と同質のものです。

 

そして初めてここなのほうから静香に向かって手を伸ばしました。

まるでかぐや姫を月へ連れて行くように。

今度はここなが自信を失った静香の感情の拠り所になる、そういう意志表示です。

これまでは静香が自信を失って抱えきれなくなった気持ちの拠り所でした

ここなは静香に言いました。

「約束はね、”二人”いないとできないんだよ」

あなたはもう一人の私であり、それでいてどうしようもなく別の人間なんだよと。

その言葉のおかげで静香はようやく自分自身の夢と向き合うことができました。

「私も立ちたい。ここなと一緒に」

 

実はこれ、まるっきり根拠がないってわけではなくて。

静香を迎えに行く前に、センスを進化させたここなは前述の「観客に作品世界をリアルなものとして見せる」ことに成功してるんですよね。

「なに……?あんなの、用意してない……」

テレーゼ曰く、「”センス”によって極限まで研ぎ澄まされた表現力は、自身の創造した世界を伝播させる」

であれば、静香(センス)の存在だって観客に知らしめることができると思いませんか。

実際ここなにしか見えていなかった存在が周囲からも見えるようにはなったわけで。

だからこれはそうなったらいいなという夢を見るような話じゃなく、夢を叶えるための話なんですよね。

 

そうしてオペラ座の怪人はここなのゴーストとしての役割を終え、一人の人間として歩き出していきます。

その象徴である仮面と、一輪の薔薇を残して。

”ファントム”は崩落に巻き込まれて音楽と共に永遠になりました

そもそもファントムの仮面が覆っていたのは右目(ここな)側なんですよ。

静香が自分で言っていたとおり、役者の持つ負の感情というのはあって当然のものであって、本当に醜いのはそれを他人に押し付けた側なんです。

だから静香は最初からファントムではなかったんだと思うんですけど、自分のことって結局のところよく分かってないですからね。

この作品に限らず人ってそういうものですから。

 

こうして新たな一歩を踏み出した二人ですが、これはふたりきりでは決して成し得ませんでした。

ワールドダイスターにはきっと一人ではなれないものなので。

作中での時間を通し、静香たちは多くの人と触れ合い、多くの役を演じてきました。

そうした中で自分の輪郭が明確になっていった結果、ようやく別の人格として生きられるようになりました。

誰かに愛されたくて膝を抱えていたファントムは、隠していた舞台に立ちたいという本物の感情をぶつけることでようやくシリウスの演技ができるようになりました。

静香にもようやく「シリウスにいる理由」ができたことになります。

一人二役」が「私達のシリウス」に進化したこと、ただそれだけが全十二場で描きたかったことなんじゃないかなあと思うわけで。

 

公演が終わり、少し時は流れ、ここなと静香は舞台の上で語らいます。

「次の演目、何やると思う?」「なんだろうと、主役は私たち」

もう静香は自分が主役であることから逃げません。

そうしてもう一度ここなに手を伸ばします。

しかしこれは今までとは違い、ここなを舞台に立たせるためではありません。

二人とも既に舞台の上にいて、手を取り合うために差し出しました。

静香はもう「ここなが舞台に立つためのセンス」ではないのですから。

 

本作は第十二場のサブタイトルでもある「きっと ふたりで」というここなと静香のセリフで〆られますが、その夢が叶うことを私たちはもう信じさせられています。

星と二人分の!!マークがうれしい

 

ここな曰く、これは「私の物語」ではなく「私たちの物語」。

そして本作曰く、「私たちが夢を叶えるための物語」。

それでは筆者の目にはどう映ったのか、それをもって今回は筆を置くことにします。

 

これはきっと、「”ふたり”が”二人”になるまでの物語」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カーテンコール

わーみなさんカーテンコールありがとうございます~!(茶番)

本当は本文が終わった時点で綺麗に〆るつもりだったんですが、やっぱ舞台と言ったらカテコが必要だろという気持ちがあったのであとがき的なものを書いときます。

ブログと言えばボーナストラックみたいなとこもあるしね。

 

最近はクールごとの新アニメを消化(という姿勢自体がよくない)するのに必死すぎてひとつのアニメに腰を入れて向き合うことがなかなかなかったんですが、フォロワーが全力で向き合っているのを見て「自分の考えもまとめないうちからフリーライドして分かった気になるのも違うな~」と思い、なんとかかんとか形にできました。

 

元々構想自体はあったのでまず1万字くらいの草稿を作ったあとに再視聴しながら事実・前後関係を確かめる方向で書き始めたんですが、かなりボロがあるし次々に新事実の再発見が進んでいくしで結果的に想定の3倍近くなっちゃいましたね。

ていうか最初に書いた文章も7割くらいは消しちゃったし……。

 

このアニメ、後から分かることが多すぎて繋がるころには記憶の彼方に行っちゃっててうまく接続できてないものが多かったんだな~と反省。

与太のつもりで書き始めたのに、八恵がここなのセンスに乗せられる形で「クリスティーヌを演じる八恵」ではなく「クリスティーヌ」になって「ファントム」にキスをしたときには「マジで正解なの!?」って叫んじゃったよ、もう。

してないと見せかけてマジでしてて失神した
「ぱんだと流石はしてなかったじゃん!」と思ってたけどそういうことだったらしいです

まったくもってここなと静香の物語しか追えていなかったんですが、今回信じて正面からぶつかった結果八恵のことがかなり好きになってしまいましたね。

ソレリこと柊に舞台に連れられオペラと出会い、そこでクリスティーヌの歌声に恋をした八恵、狂うだろ……。

 

後半一気に収束していく関係でアラビアンナイトあたりから急速にこのアニメの楽しみ方を理解したせいで、そこから急激に文章量が増えちゃってすごく歪になっちゃったのでもしかしたら竹取物語とかは加筆するかもしれません。

そもそもそこまではだ・である調でかっちりした文章を書いていたのに「シリウスの演劇の話をするのに感情と感情がぶつかる文章じゃないのは嘘だろ」と思ってやり直してますからね。

この文章が、シリウスの劇団員が放つ光のように、読者の瞳に輝きを燈す一助になったのであればいいなと思います。

いつかみんなでbest_daistar_JPになろうね。(ワールドじゃないんだ)

 

さて、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。

みなさんの中でワールドダイスターというアニメが60点くらいにはなったでしょうか。

TVアニメ「ワールドダイスター」は全十二場で終わってしまいましたが、好評配信中のおソシャ「ワールドダイスター 夢のステラリウム(通称ユメステ」ではアニメの先の物語が描かれています。

まあ筆者はものぐさなのであまりちゃんと追えていませんが……。

 

また、11月にはライブイベントも控えていますし、なぜか現在台東区とコラボしてスタンプラリーを行っていたりもするので興味がある方は是非。

メディアミックス作品はアニメにハマったあと突如虚空に投げ捨てられたりしないという点で救いがあっていいですね。

まあガチャと一緒に精神をすり減らしながらやつれていくという宿命も背負っているんですが。どっちがマシなんでしょうか。

 

それではまた2年後くらいにお会いしましょう。

もしも、また君と会うことができたら……。

 

いえ、願いごとはやめておきましょう。